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Buatsui Soup | コリン・ジョイスのブログ

忘れられた王

2016.11.01

ジャーナリストも作家もミスをする。間違いにこだわらない派とこだわる派の差異は明らかで、(おおかたの)こだわらない派は、印刷物でミスをしない方法なんて何も書かないことしかないとあきらめ、失敗を糧にして前へ進もうとするだろう。こだわる派は――ぼくもそのひとりだが――ささいなへまも、ささいとは言えないへまもいちいち覚えていて、そこに伴うきまり悪さや恥ずかしさは、時が経ってもあまり薄れてくれない。

というわけで、ぼくは最近になって自著『LONDON CALLING』の、2年前に書いたプロフィールの内容にミスを発見してしまった。

[コリン・ジョイスは]今はコルチェスターに住む。コルチェスターはロンドン以外にイギリスの首都になったことがある唯一の場所だ。ただし不幸なことに、コルチェスターの短い全盛期は約2000年前にローマ人の支配の下にもたらされたものだが。(『LONDON CALLING』より)

(著者が自分で略歴を書くことを、読者のかたがたはご存じかと思うが――自分を三人称で語ってよいとされたときに、その人がおのれについて何を言おうとするかで、どんな人柄かいろいろとわかるものだ)

それはともかく、ぼくがこのプロフィールを書くにあたって悩んだ記憶があるのは、コルチェスターが"正式"には首都ではなかったからだ。ローマ帝国が最初にブリテン島の支配を宣言したときに、本拠地となったのがコルチェスター――だからぼくはコルチェスターが(短期間ではあるが)ローマン=ブリテンの事実上の首都だったと判断した。

歴史の本がイギリスの王や女王の始祖をウェセックス家とし、その王国の中心地がウィンチェスターだったことも気になった。だが、ぼくの理解ではウェセックス家の王は"アングロ・サクソン人"または"イングランド人"または"イングランド"の王としか見なされていなかった。つまり、イギリス全土の王ではない。

ところが先日、いつも楽しませてくれる歴史家のマイケル・ウッドが手がけた、はるかむかしのウェセックス朝の王についてのTVシリーズを観た。そしてある回で、アゼルスタン(在位924~939年)がイギリス全土の支配を宣言したことで、ウィンチェスターも理論上は"イギリスの首都"になったことが明らかにされた。アゼルスタンの名前と、ラテン語の"Rex To Br"("全ブリテンの王"の略語)という肩書きを記した貨幣が国じゅうで鋳造された。ウェールズの王たちを、アゼルスタンの"副統治者"として挙げる文書もある。またアゼルスタンは統治を断行するために、スコットランド北部のケイスネスまで自軍をはるばる進軍させた。長くは続かなかったものの、イギリス全土にわたるほんものの統治宣言であり、ちなみにそれはローマ人がなしえなかったことだった。(ローマ人が全力を尽くしても、スコットランドは征服されなかった)

ウッドの説によれば、アゼルスタンの偉業は治世が終わるとすぐに過小評価されるようになった。アゼルスタンの王位継承と治世に異議が唱えられ、政敵はアゼルスタンが庶子だと非難した。アゼルスタンは自分の子をつくらないことに同意し、それによって王位が確実に異母弟の家系に"戻る"ようにすることで、王の座を確保したらしい。のちに王位を継いだ者たちは、アゼルスタンを歴史から抹殺することを望んだらしく、ウッドの考えでは、そのせいでアゼルスタンが"忘れられた存在"になったという。

ということは、これはぼくのミス史上、いささか釈明の余地のある件と言える。

[コリン・ジョイスは]今はイギリスの"最初の首都"であるコルチェスターに住む。ただし不幸なことに、コルチェスターの短い全盛期は約2000年前にローマ人の支配の下にもたらされたものだが。

連載
コリン・ジョイス Colin Joyce
コリン・ジョイス
Colin Joyce

1970年、ロンドン東部のロムフォード生まれ。オックスフォード大学で古代史と近代史を専攻。92年来日し、『ニューズウィーク日本版』記者、英紙『デイリーテレグラフ』東京特派員を経て、フリージャーナリストに。著書に『「ニッポン社会」入門』、『新「ニッポン社会」入門』、『驚きの英国史』、『マインド・ザ・ギャップ! 日本とイギリスの<すきま>』など。最新刊は『なぜオックスフォードが世界一の大学なのか』(小社刊)